聡明に成らないでも、誰も君を嫌ったりはしない。
懸命に成らないでも、君は十分戦った。
眠れば良い、大地が再び目覚めるまで。
その時君は、総ての虚無を受け入れるから。
その向こうに在る灯火
3:変わる決心
蒼昊は欠伸を噛み殺しながら、ベッドから離れた。
その中には未だマルバスが幸せそうに寝息を立てながら横になっているが、まあ、問題は無いだろうと思い、ほぅって置く事にした。
覚醒し切れていない身体を引き摺りつつ、彼は箪笥から今日着る衣服を取り出し、寝巻きを脱いでいく。
上着の袖に、腕を通す頃には大分しっかりと物事を考えられるようにはなっていた。尤も、完全な覚醒ではないが。
彼はそのままリビングへと向かい、六枚切りのトーストをオーブンレンジに入れながら、珈琲豆を入れた瓶の蓋を開ける。そうして、同時に牛乳を適当な大きさの鍋に注ぎ、火を掛けた。
是は、朝の通例の行事だ。習慣付けられたそれらの動作は、流石に無駄な動きが少なかった。
コーヒーの香ばしい香りがあたりを漂う。是が好きな蒼昊は、暫くその香りを堪能しながら、焼けたトーストを取り出してマーガリンを薄く塗っていく。此処で、完全に眼が醒めるのだ。
そして、味見するように一口齧ってから、今日は何となくスクランブルエッグも食べたくなったので、トーストを皿に置き冷蔵庫に手を掛けて、――はた、と止まった。
伝書鳩を模した不思議な生物がふわりと彼の周りを飛び、そして、一枚のメモを残して、何時の間にか消えうせた。
しかし其れには気にせずに、差出人を確認する。ミシェル、と書いてある事から、蒼昊はまたか、と独りごちた。
ミシェルはよく、レイにまた愛想つかされたかも、等と言った取りとめも無いメモを朝っぱらから送るからだ。
そして、今度はレイに如何されたんだと思いながらメモの文字を眼で追って行く内に、蒼昊は思わず其れを落としかけた。
「な、内容がまとも…。」
ミシェルは一体、如何言った認識をされているのだろうか。
太陽が頭の上で熱を発している。
蒸れるんじゃあないだろうな、と思いながら、マルバスは先程購入した緑茶を呷った。
ダンデインは元々紅茶の産地だが、だからと言って総ての出身者が等しく紅茶を好んでいる訳ではなくて、マルバスも其の一人だ。
と言っても、ただ単に自販機に好きなブランドが無かっただけなのだが。
此処で待つように言われたから来てやったと言うのに、その相手は未だ顔を見せていない。何て言う御身分なんだか。
「嗚呼、畜生、あの莫迦何をしているンすか…!」
悪態を吐き、もう一度缶を呷る。何となく中を見るともう殆ど飲んでいたらしく缶の底が見えて、余計に苛立ちを感じてしまった。
今日は元々入っていた仕事の所為で、蒼昊が居ない。其の為何時もよりも時間が経つのが長く感じられた。
勿論其れだけではない。この場所の気候がイライラして仕方が無いのだ。
暑い。暑すぎる。
是は最早異常気象としか言い様が無いほどに、暑い。しかし、そう思えば思うほど、苛立ちが増していく要因に成るのだが。
と、其処に見知ったヒトが近付いてくるのに気付き、マルバスは思いっきり其方に向かって、未だ少量の緑茶が残っている缶を投げつけた。
寸分違わず其れは目指したヒトに当たり、「あいてっ!」だか「冷た温っ?!」だかよく判らないが、兎に角先程まで溜った鬱憤を少し晴らすには十分な声を出させる事には成功した。
相手――ミシェルは困ったように上着を脱ぎ、白いワイシャツにまで緑茶が浸透していないだろうかを確認しながら、マルバスのほうに近付く。
マルバスはマルバスで、そんなミシェルを一瞥すると、さっさと此処に呼びつけた理由を話せ、と其れだけを直ぐに発した。
「久々に逢ったのに其れは無いだろうよマルバス?」
「五月蝿いッス。俺は直ぐに涼しい蒼昊のところに帰りたいンスよ。さっさと話すッス。」
言い切ったマルバスに苦笑しつつ、ミシェルはまぁ、そう怒るな、と近くにあった椅子に座る。彼が内容を話さない事には仕方が無いので、マルバスも其れに続いた。
「なぁ、マル。お前『スレバリア』って村、知らねぇか?」
「『スレバリア』ぁ?」
マルバスは素っ頓狂な声を上げた。
「ミシェル、お前あんな所に行くつもりッスか?」
「嗚呼、如何しても行かなきゃならない用事が有ってな…。其れに、挨拶にも行きたいしよ。」
「…レイとスライの姐さん絡みッスか。」
そう言う事、とミシェルはにやりと笑う。お前はそう言う事に敏感で助かるよ、とも続けた。
マルバスは暫く黙り込んだ後、じゃあ仕方が無い、とでも言うように大きく溜息をついて、地図を出すように促した。
がさがさと地図を取り出すミシェルに、マルバスはでも、と小声で紡ぐ。
「でも、『スレバリア』は今はもう村としての機能なンか殆ど無いはずッスよ?五年前から人口がかなり減ってるって事だし、特産物とも言えた竪琴も今は作られていないらしいッスから。」
「…竪琴、そんなに有名だったのか?」
「そう言う話ッス。吟遊詩人なら、大枚はたいて其れを買い求めたって言う話ッスね。しかしその名前がまた面白いンスよ。」
「『ユダスの竪琴』って言うのか?若しかして。」
そうッスよ!マルバスは驚いたようにミシェルを見た。彼はそう言った教養など持ち合わせていないように思っていたからだ。
ミシェルはそんなマルバスの頭を笑いながら小突き、俺だって無知って訳じゃない、と明るく言った。
「裏切り者の竪琴、ねぇ…。何で其れが吟遊詩人の間で有名な名前なのか、今壱つ判りたくないな。」
「そうッスね。きっと、美しい音を出せる代わりに、他人を蹴落とすって意味合いでも有るんだろうと思うッスよ。」
「其れでも、……そんな名前がついていて、そうなるかも知れなくても、高みを目指したって事か…。」
芸術至上主義は怖いな、と零して、ミシェルは漸く地図を広げた。マルバスは其の中に紅いラインを描き付けていく。
道筋は、メガロポリスから続いていて、ミシェルも入った事の無いような山道へと続いている。
果たしてこのミチを、拳一つで降りて行く事が出来得るかどうか、甚だ怪しい。きっと、誰か大人が居て、共に降りて来なければいけない様な険しいミチを、レイジェンは独りで駆け抜けて行ったと言うのか。
其処まで追い詰められていたのか。レイジェンにしても、村人にしても。
「あ、そうッス…。昔爺から聞いた事になってるンスけど、何でもそう言う意味だけじゃなくて、村の子供で何やら儀式をして、生き残った者が其の材料を手に入れるとか何とかで、そっちの意味で裏切り者の冠がついたとか何とか…。大分ボケてる爺だったから、前後が違ってるかも知れないンスけど。」
「ほぅ…。成る程な。まぁ、結局誰かを裏切るって意味で付けられてるんだな。その爺さんの言ってる意味は今一汲み取れてないんだが。」
「俺もわからないンスよね…。爺、微妙にアッチにイッたヒトだったしなぁ…。」
取り敢えずありがとうよ、とミシェルが其のまま席を立った。と、マルバスは意地悪な笑みを浮かべて服の裾を握った。
「此処まで聞かせて言わせて巻き込ンでおいて、俺らを除け者にする気ッスか?」
「いやー、ダンデイン出身のお前なら何かと知ってると思っただけで、別に巻き込むつもりは。」
「レイの事も一応知ってるッスよ。」
「何だと?!」
驚き、――少し怒りを露にした顔で、ミシェルはマルバスを睨むように見た。マルバスはハハン、と鼻で笑うようにしながら、俺はこの情報網で、蒼昊は予知夢的なもので知ってるンス、と言った。
其れを聞いた瞬間、ミシェルは大袈裟に椅子に倒れこんだ。
「忘れてたよ、お前達もある種の異常を抱えてるって事を。」
「と、言う訳で俺らも手伝うッスよ、その個人クエスト。」
「…まぁ、レイが首を立てに振りゃあな。」
「意地でも振らせるッス。」
「強制かよ!!」
空を仰げば、其処には月が朧に浮かんでいた。
昼間でも、月は見える。朧で、虚ろで、頼りないチャンドラ。でも、其れはまるで今宵の薄明かりを思わせるもので、何処か優しく冷たく、ヒトの心其の侭の様に思えた。
昔、その周りを浮かぶ星は、月を虐めているんだと思っていた。今はそうは思わないが、けれども、月が肩身狭く青白く光っているのを見るのは、未だに慣れない、とは思う。
……現実世界で、自分の様に思う人間が、果たして居るかどうか。ほんの少し、気になった。
きっと、こんな捻くれた考えの人なんて、居ないのだろうけれど。この世界のヒトでも、居ないだろうけれど。
そんな事を思いながら、レイジェンはごろりと草原の隅に寝転がった。
俺だけで行って来ると言って聞かなかったミシェルは、果たして今頃如何しているだろうか。
絶対にマルバスと蒼昊が手伝うと言っているに違いないな、と思った。驕りではなく、彼らの性格を考えると。
自分に正直な彼らを見るのは心地良い。彼らは自分に対しての自信が有って、誇りを持って行動している。其れを見るのは好きだ。
自分もそんな風に、何かを自信に思って行動出来たなら、もっと結果が違っていただろうか、と思う事がある。
決められた過去ではあるが、其の中で何処かで抵抗出来たなら、とも思ってしまう時がある。
そんな事は過ぎてしまったものに対する冒涜である。しかし、判っていても、つい其れに思い馳せてしまう。
そんな、弱い自分。
「変えられるかな…。」
呟いても如何にも成らない。決めるのは自分自身。
「レイーッ!」
手を振って此方に向かう陰が二つ。ミシェルとマルバスだ。何時もなら蒼昊も居る筈だが、今回は如何やら手が空いていなかったらしい。彼は呪術師としての仕事もしていたはずだから、仕方ない事ではあるが。
此方も手を振り返して、とことこと二人の方に向かう。が、近付くにつれてマルバスがやけににやにやと笑っているのが見え、あと数メートルの単位で立ち止まった。
「な、何だ、マル…。何を笑っているんだお前は…?」
「いやぁ、アンタらも終に超えられない壁を越えたかと思うとねぇ…。」
「何の話だッ?!」
「え、言わせるンスか?此処で?」
思い当たる事など無くて、レイジェンは暫く考えた後、だから何の話なんだ、とだけ言った。
其れを聞いて、マルバスは眼を丸くして二人を見、ミシェルは酷くショックを受けた顔をしたが、はっきり言って当人にとってみれば此方が不思議なのである。其れを癒す為の言葉すらも見当たらない。
最終的には、大袈裟にミシェルが倒れこみ、うっうっ、と涙を流す真似さえする始末。そしてマルバスは其の肩をぽんぽんと哀れみの眼をもって叩いている。
「だ、だから何なんだ…?」
レイジェンの問いに答えるものは、その場には居なかった。
「まぁ、コッチは置いといてッスね、レイ。クエスト俺達にも手伝わせろッス。」
「え、置いといて良いのか?寧ろ今何気なく命令形じゃなかったかお前。」
だって行く気満々ッスよ、とマルバスはにやりと意味有り気に笑う。
矢張り、とは思いつつも、こうも思った通りに言われるとは何とも可笑しな話である。
レイジェンはその事を思うと少し笑いそうに成ったが、先に返事をしなければと思い、冷静に成ると言う意味合いも篭め、一回眼を閉じて、それからゆっくりと開いた。
そして、別に良い、と其れに返す。すると驚いた顔のマルバスがそこに居て、レイジェンの方が面食らってしまう結果になった。
良いンスか?
再度訊くマルバスに、レイジェンは嗚呼、と答える。驚愕してレイジェンの方を見るミシェルに笑いかけてから、只、と続けた。
「只、絶対に嫌な思いはするけど、其れでも付いて来てくれるなら。」
其れに、逃げないように、の意味合いもあるしな。
レイジェンが自嘲しながら言うのに対して、マルバスは満面の笑みを浮かべて、おう!と返す。
「勿論蒼昊も行くッスよ!」
「嗚呼、心強いよ…。ありがとう。」
「礼には及ばないッス!俺達は好奇心で行くようなもんでもあるッスから!」
「正直だな…。」
その正直さが羨ましい。
レイジェンは口の中でそう言って、にこりと笑った。
そして、途中から置き去りにされたミシェルは非常に不服そうにしていたが、まぁ、大丈夫だろう。
夜中。
完全に見えるようになった月を見上げて、蒼昊はマルバスから聞いた話の一部を思い返していた。
きっと明日から直ぐにでも自分たちは其処へと向かうのだろう。好奇心と宿命に押されて。
隣で眠ってしまったマルバスの髪を撫でると、彼はうぅんと唸った後、嬉しそうに微笑む。きっと、何か暖かな夢を見ているのだろう。
その時急に、蒼昊は其の村の名前と少しの事情を、昔聞いた気がした。
アレは一体何だったか。とても重要な筈なのに、ぽっかりと空いてしまった記憶の穴は其れを引き寄せる事が出来ない。
だが、まぁ、村にでも行ったら思い出すだろう。思うほど重要な事柄ではないかも知れない。
そう思い、マルバスに布団をかけてやってから、彼は其の横でゆっくりと眠りに落ちて行った。
同時刻同じ空の元。
レイジェンは月を背中に受けて、独り舞っていた。
心を落ち着かせる為だった其れは何時しか本当に舞う事を総てにして、其の中で彼は只舞う事のみを考えていた。
そして、草上の舞が終わった瞬間襲ってきた達成感と痛みと共に、その場に腰を下ろす。
汗をタオルで拭い、ゆっくりと簡易住居を見やる。
何故か今晩も寝具と共にしようとしたミシェルを、無理矢理客室に叩き込んで抜け出してきたのだが、如何やら抜け出した事はバレていないらしい。
ほっと胸を撫で下ろして、レイジェンは呟く。
「少しは変われたかな…。」
「変われたと思えば変われるぜ?」
そう返したのは、言わずもがな。ミシェルはにっこりと笑いながら、修行不足だな、とレイジェンに言った。
「…何時から居た?」
「舞い始めからだと思うぜ。レイ、上手いんだな、舞うの。」
其れが義務だったから、と返しながら、この早鐘が聴こえやしないかとレイジェンは酷く焦った。
舞を見られるのは、是を教えたフェーレーン以外では、誰も居なかったからだ。誰かに見られる事も無く過ごしてきた者にとって、其れはある種の拷問のようにも感じてしまう。
例え上手いと言われようとも、説明のつかない羞恥心がぐるぐると内臓を駆けずり回った。
「見てるなら見てると言え…ッ!」
「言ったら止めただろうが。俺はレイの全部が見たいんだが?」
「ふ、ふざけるた事を言うなッ!!」
「ふざけてないんだがなー?」
「――ッ!!」
真っ赤になって、レイジェンは何か口の中で言ったが、ミシェルには聞こえず、霧散してしまった。
そして其れにも気付かない素振りで、ミシェルを簡易住居に押し込み、自分も中へと消えていく。
だが、月だけがその言葉を吸い込んで、青く黄色く、静かに美しく揺らめいていた。